70歳の危機と奇跡④

  病気やなんらかの症状に関して、自然な条件下で起こるという受け止め方が一般的だ。たとえば、不摂生によるもの、老化、感染、ストレス、遺伝・・・等々。これらは何らかの因果関係をもって説明されよう。だが世の中には、説明がつかない、どう考えてもどう検査しても、どうにも答えが出ない、よって治療法もない病や症状というのがあるようだ。そういう類のものに対して、今後、科学的な分野で解明されていくことが期待できるが、科学や医療がすべてだろうか?確かに自然条件下で起こる病の発生は否めないが、聖書には病の発生に関わる霊的存在が示されている。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり(私たちの健康も盗む)、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」  (ヨハネ10章10節)

 

 すると、そこに18 年も病の霊につかれ、腰が曲がって全然伸ばすことのできない女がいた。-(中略)-「この女はアブラハムの娘なのです。それ18 年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」                                                                             (ルカ13 章11節、16 節)

 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。」-(中略)-そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出ていき、その子はその時から直った。

                         (マタイ17章15節、18節)

 

 

 

 

70歳の危機と奇跡③

 なんと、そのあとからふうーっと身体が軽くなった。まるで身体中をきつく縛っていた重い鎖が外れ落ちたような感覚だった。身体は左側に大きく「く」の字に傾き、歩くにもかがむにも、非常な苦痛を伴ったのに、なんと楽になったことだろう。その日は家族から接骨院へ行くよう勧められていたので、どうしようかと半ば迷いながら車で行くことを決めた。昨日までは車に乗るなんて考えられなかったことだ。たとえ、夫に連れて行ってもらうとしても、ひどい苦痛のため、静かに横になっていたほうがましだとさえ思えた。それが今や車の乗り降りも運転も自分で、しかも意外なほど楽にできた。接骨院で問診票を書いて立ち上がる時、「あれっ」と思うほど苦痛がなくなっているのを感じた。それで、「ここに来てからすごく楽になりました。」と受付の奥さんに言うと、「えーっ、まだ何もしていませんよ。」とけげんそうな言葉が返ってきた。そういえばそうだっけ。治療はこれからだったんだ。治療のためにここに来たのにその必要もないほど良くなってしまった。なんということだろう!あの痛み、体中を締め付けていた苦痛はどこへ行ってしまったのだろうか?私の日常も私の将来も狂わせ、奪うかに見えたあの暗闇の力はどこに失せたのか?私はいやされた!主よ、感謝します。

 素晴らしい神の愛、憐み深いイエス様の御名を私はほめたたえる。私の祈りに主は答えてくださった。確かに主は私を見捨てることはなかった。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」  (詩編23編4節)

私にとっての死の陰の谷、骨盤がずれて苦痛と不自由さの中にいた絶望的な日々は終わった。ハレルヤ!

70歳の危機と奇跡②

 でも、一方で何とかしなくちゃ、このままではいられない、との切迫した気持ちで心が騒ぐ。すぐさま私は、この状況をご存じの私の神にいやしを求めて祈った。(私はクリスチャン)―これまでに、もう前に進めないという困難なことが多々あったが、その都度神の奇跡的な介入があった。―私の神は決して私を見捨てはしない。

 だが、祈ってもすぐに変化があらわれることはなかった。こんな不自由な体でいつまでいなければならないのだろう?これから先、そしてずっと、そう考えると気が滅入ってくる。トイレにはなんとか行けたが、何をするにも体をきつく縛られているような不自由さと腰の痛みがある。そのようなわけで、食事をするために椅子に座ることさえ苦痛だ。かつては思いのままにできていたことが、今はしょうとしてもできない。神はなぜ、このような状況が起こることを許されたのだろうか?どうして何もしてくださらないのか?だんだん心の中に無力感が広がっていった。

 そのうち、ふと気になっていた本を取り上げて読んでみようと思い立った。それは、「告白はあなたを変える」というタイトルの本だ。告白というと、罪の告白を思い出すかもしれないが、この本で言うのはそういう類のものではない。むしろ、肯定的な告白であって、神のことば(聖書の真理)をどう信じているかを言うことなのだ。つまり、私が神のことばと一致した言葉を告白するとき、その告白の言葉に力があるのである。この本を読み進めるうち、信仰が頭をもたげ、心の中の暗いものが次第に消えていくのを感じた。そして、聖書の言葉を声に出し宣言した。「彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって私たちはいやされた。」(イザヤ53章5節)さらに、「私は罪から救われており、病もいやされた。主イエスがわたしのために苦しみを受けてくださった。」と自分の言葉で告白した。そのあと、悪魔をイエス・キリストの御名によって退けた。

 ※悪魔・・・サタン。その支配下に悪霊がおり、人間にわざわいをもたらす。                       

       

       

 

 

 

70歳の危機と奇跡

 70歳からの生き方に関連した本が話題を呼んでいるようだ。「シャキッと75歳、よぼよぼ75歳」とか「70歳が老化の分かれ道」なんて題名の本もある。70代になって急に老けてしまったと感じる友人や知人が、あちらにも、こちらにも...。かと思えば、病院通いの回数が増えたという人や、入院したという人のこともよく聞く。そうなのか、60代と70代では随分違いがあるのだなぁ。年を取るということは、だんだん体力や気力が衰えていくだけのことと思っていたが、どうもそれだけではなさそうだ。

 私も昨年70歳代の仲間入りをしたが、この年になって急に足腰にトラブルが出始めた。ある日突然、介護状態に!なんてことが現実に起こったのである。そんなことが私の身において起こるとは⁈全く予期しないことだった。前向き思考と少しばかりの体の鍛錬さえあれば健康寿命は保てると私は楽観視していたので、それはかなりのショックだった。

 7月下旬のある朝のこと、いつものようにベッドから出て服を着替え、一日がスタートするはずだった。それが体を起こすことはおろか、立ち上がることも、歩くこともままならない状況となる。自分の身に何らかの異常が起こっている!と直感した。まっすぐに立って歩くことさえつらく、特に腰のあたりにきしむような痛みを感じた。鏡で見てみると、体の中心が左に傾いており、骨盤がずれていることが一目瞭然だった。廊下をやっとの思いで歩く私の姿を見て、「お母さん、それじゃまるで介護状態だよ。」と息子に言われてしまった。今まで何の苦も無く歩いていたのに、急に、どうして?なにが悪かったの?原因もわからず、ひどくみじめで暗い気持ちに沈みこんでいった。

 私の思考の中で様々な思いが駆け巡っていた。長年使ってきた体だし、体のゆがみが骨盤に負担をかけているのかもしれないなぁ。建物であれば、原因として地震地盤沈下、構造上の欠陥などによって徐々に弱い所にひずみがたまっていくことが考えられる。そのうちに柱が傾いたり、束石がずれたりということもあるだろう。人間の体も、長年の労働や、人それぞれの動きの偏りなどが影響しているのだろうか?思い返せば、いつからか、朝起きてズボンや靴下をはくことがすんなりできず手間取っていた。こわばった腰で前かがみになり、足を片足ずつ持ち上げることがとても不自由だった。でも、朝起きたばかりだから体の動きが悪いのは仕方ないと、特に気にも留めていなかった。長年使った機械でさえ故障するのだから、人間の体もこんなものかもしれない。今思えば、当時の不調は予備軍のようなものだったのだろうか。

 

猫のマッサージ師

 我が家には素晴らしい猫のマッサージ師がいる。白黒の、どこにでもいるオス猫だ。名前は福、威勢のいい半面、おくびょうな彼のどこに取り柄があるのかと思うだろう。子猫が母猫の乳房をまさぐるような様子を見たことがあるかもしれない。また、おとなの猫が毛布などの柔らかいものを踏み踏みすることも珍しいことではない。たまに人の背中を踏んでくれる猫というのもあるらしい。それはとても可愛らしいしぐさである。だが、福のそれは、人の側から言うと単にかわいいだけではなく、素晴らしいリラックス効果をもたらしてくれるのだ。

では、まず、彼お気に入りの柔らかいチエックのハーフケットを用意しよう。これは必需品である。これなしでマッサージを期待しても、彼はそっぽをむくか、やり始めても気が変わってどこかに行ってしまうからだ。だが、このハーフケットを肩から羽織り腹ばいになれば、彼の目は好機を得たとばかりに背中へ乗っかってくる。福の重すぎず軽すぎず、ちょうどよいからだの重みと、しなやかなかわいい足の動きが背に伝わってくる。その気持ちよさたるや正に飛行機の滑空するがごとくである。滑走は静かに確かめるように徐々に上昇へ。そうしてしばらくは背中、腰、臀部と場所を変えながら小刻みな足の動きに変わってくる。彼も満足そうに「グル、グルー」と喉を鳴らし始めた。時に踏み足をすり足に、そうかと思うと背筋を伸ばしてみたりしながら余裕で順調なフライトが続く。人も猫も至福の極みである。そうこうしているうちに次第に高度は下がり始め、いつ降りたともわからぬうちに無事着地となる。不覚にもわたしは、正体わからぬまま睡魔のしとねに落ちてひとときの漂流飛行は終わるのである。不眠で苦しんでおられる人に、ぜひ、この眠りをお分かちしたいものだ。