回復へ

 翌朝は血圧が少し下がって頭の痛みもなかった。これまで腰の痛みのため寝返りもしずらかったが、いくらか布団の中の身体が動きやすく感じた。トイレに立つのも楽になった。きっと、友人の祈りが神に届いているのだろう。本当にありがたい。

 あの邪悪な悪しき日(エペソ6章13節)からわずか三日ほどで身体の不調はどんどん変わり、なんとか日常のことがこなせるまでになった。それで、思い切って自転車に乗ってみようという気になった。今までの身体の状態を思えばそれは無謀ともいえるが、私はこのままの体調に満足してはいられなかった。大事を取って良くなる保障もなかった。これは戦いなのだ。サタンとの戦いであり、自分の肉の弱さ、恐れや不信との戦いなのだから。信仰の大海原に乗り出さなければならない。  

  新 聖歌に「沖へ出でよ」345番があるが、私の心を奮い立たせてくれる。

 ♪ 父なる神の恵みは限りなき海ぞ ともづなを解きて沖へ漕ぎ出でて見よや 

   沖へ出でよ 岸を離れ 主の恵みのただ中へ いざ漕ぎ出でよ

 

 

 

                              

絶望の中で・・

 朝目覚める頃、頭痛あり。血圧かな?と思って測ると高めの数値が出た。さらに右側の腰にしこったような痛みがあり、身体全体が柔軟さがなく動きが悪い。それで背筋が伸びず、身体を起こしているのもつらい。今日はベッドで過ごすほかはなさそうだ。

 家族が帰宅した夜、私の身体の苦痛はあまりにもひどく、立つことはできるものの背筋を伸ばすことができない。洗面所の鏡に写った自分の姿を見て驚いた。その身体はくの字どころか、S字状に曲がっているではないか!?・・それで歩くこともままならないほどの苦痛があるのだ。やっとのことでキッチンのテーブルまで歩いて椅子に腰かけようとした。だが、そのままでは座れず、夫に両脇を抱えてもらう。テーブルに私の両手をついてなんとか座れたが、今度はバランスをとるためにその手が離せない。なんということだろう!こんなことさえできないとは!?・・情けなくなって涙がこぼれた。

 夕べの腰の痛みは尋常ではなかった。陣痛のような痛みによって骨盤に何らかの変形が起こったのかもしれない。だが、なぜこんな症状に突然見舞われるのか?何がそれを引き起こしているのか?まったく思い当たることがない。不可解で絶望的な状況だが、ここで見たまま感じたままを受け入れてしまうことはできない。どうしてもギブアップするわけにはいかないのだ。もしも、思いの中で受け入れてしまうならば、それは敗北を表すことになり、私は一生この身体で生きなければならない。

そこで、私は、クリスチャンの友人に祈りを要請した。彼女は私の危機的状況がすぐに分かって、神にとりなしてくれると言ってくれた。私は以前からあまり人に祈りを頼む質ではない。人からは祈ってほしいと頼まれることがよくあるが、そういう人に限って自らは祈りの格闘をしない。自分の重荷を人に預けて気楽になっている。そうして神との深い関係に入っていこうとしない。つまり、神を信頼していないのだ。そういう訳で、神に頼らず人に頼ることを恥じていたが、今度ばかりは切迫した危機感を感じて、友人に祈りを要請するに至った。

 

危機再び

 穏やかな秋の日差しの中、夫と一緒に自転車に乗って近くのスーパーマーケットへ買い物に行く。この頃、ひざと腰の状態が良くないので不安はあったが、主が支えてくださることを信じてペダルをこぐ。しばらくすると身体もほぐれ温まって、ひざの痛みはでなかった。道沿いの木々の葉は色づいて美しく、目を上げれば、富士の端麗な姿が・・平凡だが幸せな時間がいつまでも続いてほしいと思わずにはいられなかった。

 その夜、一時半ごろトイレに起きたあとから腰の全面が痛み、全然寝付けない。どうしたのか?どう身体の向きを変えてもまったく良くならず、却って痛みが増しているようだ。私はこの時、ある痛みを思い出していた。ああ、そうだ、お産の時もこんな痛みがあったっけ。一体、私の身体の中で何が起こっているのだろう?不可解な不安と恐怖がじわじわと心の中に広がった。その時、私は今があの”邪悪な日”であることを知った。

 

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

足には平和の福音の備えをはきなさい。

これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」    

                      (エペソ6章10節~17節)        

 私は身体を支えるために両手をお尻の上部に当て、思い出す限りのみことばを声に出して宣言した。また、イエス様の御名によって、サタンに出ていくように、痛みをもって攻撃することを止めるよう命じた。いやしを主から受けるためにただ祈って待っているだけではいけない。戦わなければならない。この夜、サタンとの戦いをはっきり意識した。神が私に与えておられる武具をもって戦わなければならない。     

限界を超える新しい力

 きょうは、 朝から腰が不調だがなんとか動けている。家業の仕事の手助けをしようと私も部材の仕分けや片付けをする。一便、二便を送ったあと、清掃をしてもうひと段落だが、どうも身体が辛い。身体を起こして立っているのがやっとだ。もうこれ以上は動けない。それなのにやらなければならないことは山積みだ。浴槽を洗うこと、洗濯物を取り込み畳むこと、夕食の支度・・。私は主に助けを求めて祈った。

「主よ、もう限界です。どうか助けてください。私にあなたの力を与えて支えてください。夫や息子が仕事を終えて、久しぶりに副収入も入ってくると喜んでいるのに、私が暗い顔で出迎えたらどんな気分になるでしょう。せめて明るい顔で迎えてやりたいのです。」そう祈って、イザヤ書40章31節を言い表した。神のことばの約束を思い出したからだ。

        「主を待ち望む者は新しく力を得、

         鷲のように翼をかって上ることができる。

         走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

そうです、主よ。あなたは、疲れた者には力を与えてくださる方、精力のない者には活気をつける方であられます。(同29 節)あなたにできないことはありません。私の本来の力は弱くともあなたの新しい力で私を元気づけてください。

ほどなく身体の辛さがゆるんで軽くなったのを感じた。ベットに倒れこみたい体調だったのに、なんということだろう!それからはすべての家事ができるようになった。イエス様、本当にありがとうございます。

 

70歳のチャレンジ

  足腰を鍛えるために、それからは自転車に乗って出かけるようにした。これまで自転車に乗るということはほとんどなかったが思い切ってチャレンジしてみた。70歳にしてこんな日が来ようとは!風を切って走る心地よさ、自転車と自分の身体が一体となって重心移動する動きに五感が刺激され、気持ちも前向きになった。三か月前にあの不自由な身体だったことが嘘のように思えてくる。思いのままに身体を動かせることがなんと有難いことだろう。なんという嬉しさ!主が顧みてくださらなかったら、今の私はない。主への感謝の思いがあふれてきて、ペダルをこぎながらも主を賛美せずにはいられない。「主よ、愛する主よ、私をいやしてくださって本当にありがとう。私はいやされている!『彼の打ち傷によって私たちはいやされた』(イザヤ53章5節)とある通り私はいやされた。ハレルヤ!」

 この年になってから自転車に乗ることに多少の不安がなかったわけではない。年寄りの冷や水で、そんなことをしたばっかりに怪我でもしたら・・と思いもしたが、まずは息子の勧めに従って保険に入り、無理のない範囲で身体を鍛えることとなった。いつもは車で買い物をすませていたが、車に自転車を積んでおいて、両方を適宜使い分けるようにした。また、車道を避けて安全第一を心掛け、海岸線や川沿いのサイクリング可能なコースを走った。これにより、私の行動範囲はぐーんと広がった。自由を奪われて介護を受ける身となっていたかもしれないことを思うと、今の生活はただただ有難かった。

 

70歳の危機と奇跡⑥

 これまでの二つの病ー骨盤のずれと膝の滑液包炎ーの奇跡的ないやしを体験して、私は「自由にされる」ことの恵みを深く考えることとなった。その時の身体の苦痛と不自由さはまさに束縛そのものだった。言わば奴隷の首、手、足を縛っていたカセ(刑具の一つ。行動を束縛するもの)で固定されているような不自由さがあったからだ。聖書には「罪を行っているものはみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8章34節)とある。罪によっても、病によっても、自由を奪われている状態はサタンの束縛や抑圧を受けているといえるだろう。だが、たとえ奴隷のようであったとしても、私たちはキリストにより自由にされる望みがある。

「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。」(ヨハネ8章36節)

 

「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5章1節)

 

 私たちは何でもしたいことをするのが自由だと思っている。しかし、神を第一とせず、自分を誇り、自分の欲を満たそうとして生きる自己中心こそ罪の本質そのものであり、自由どころか束縛されているのだ。すなわち悪魔によって、罪の報酬である死によって、死の恐怖によって、永遠の地獄によってつながれている。しかも、私たちの人生は様々な病気や痛みによって苦痛の多いものとなった。だが、そんな絶望的な奴隷状態にある私たちを自由にするために、イエス・キリストが罪の代価を支払ってくださった。それは、十字架で流された尊い血潮である。

 

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1章7節)

 

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2章24節)

 

罪の束縛からも、病気の束縛からも、だれであっても自由になりなさいと、キリストは招いておられる。「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」      

                         (ガラテヤ5章13節)

 この度私は、キリストにある自由(霊肉共に)を頂いて、束縛の何たるかを、自由の何たるかを身をもって教えられた。また主は私の祈りに聞いてくださり、再び健康を取り戻してくださった。いつくしみ深い主に、心からの感謝と賛美をささげます。

70歳の危機と奇跡⑤

  私たちは病気や何らかの症状を、年のせいだとかストレスが作用したからだと言ってそのように捉えがちだが、一因はあるものの背後に悪魔の働きがあることを見逃している。そして、その症状や病気は自分のものであるかのように悪魔の嘘を信じて受け入れてしまうのだ。

 世の中には悟ったようにこんなことを言う人がある。「病気と闘おうと思うからよけいに苦しいのだ。むしろ、病気を受け入れれば無用な葛藤はなくなる。」とか「がんと共に生きる」等々‥。このように言う人はすでに欺かれている。つまり、悪魔の思うツボだということである。イエスは悪魔のことをこう言われた。「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8章44節)

 悪魔のもたらすものに私たちは「ノー」と言わなければならない。幸いなことに、神は私たちにイエス・キリストの贖いによる救いの道も、病のいやしも与えておられる。