70歳の危機と奇跡⑥

 これまでの二つの病ー骨盤のずれと膝の滑液包炎ーの奇跡的ないやしを体験して、私は「自由にされる」ことの恵みを深く考えることとなった。その時の身体の苦痛と不自由さはまさに束縛そのものだった。言わば奴隷の首、手、足を縛っていたカセ(刑具の一つ。行動を束縛するもの)で固定されているような不自由さがあったからだ。聖書には「罪を行っているものはみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8章34節)とある。罪によっても、病によっても、自由を奪われている状態はサタンの束縛や抑圧を受けているといえるだろう。だが、たとえ奴隷のようであったとしても、私たちはキリストにより自由にされる望みがある。

「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。」(ヨハネ8章36節)

 

「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5章1節)

 

 私たちは何でもしたいことをするのが自由だと思っている。しかし、神を第一とせず、自分を誇り、自分の欲を満たそうとして生きる自己中心こそ罪の本質そのものであり、自由どころか束縛されているのだ。すなわち悪魔によって、罪の報酬である死によって、死の恐怖によって、永遠の地獄によってつながれている。しかも、私たちの人生は様々な病気や痛みによって苦痛の多いものとなった。だが、そんな絶望的な奴隷状態にある私たちを自由にするために、イエス・キリストが罪の代価を支払ってくださった。それは、十字架で流された尊い血潮である。

 

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1章7節)

 

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2章24節)

 

罪の束縛からも、病気の束縛からも、だれであっても自由になりなさいと、キリストは招いておられる。「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」      

                         (ガラテヤ5章13節)

 この度私は、キリストにある自由(霊肉共に)を頂いて、束縛の何たるかを、自由の何たるかを身をもって教えられた。また主は私の祈りに聞いてくださり、再び健康を取り戻してくださった。いつくしみ深い主に、心からの感謝と賛美をささげます。